2010-10-29

報告と資料―第3回

当日資料

★報告
 10月27日、素人の乱12号店で検証・日本のメディアアクテイビズム第3回「市民メディアの勃興、挫折、現在」が開催された。当初、報告者として市民メディアアドバイザーの下村健一さんを予定していたが、内閣審議官に就任し多忙を極めているため、急遽ピンチヒッターとしてフリーライターの岩本太郎さんに報告・司会をお願いした。岩本さんはこの7年ほど全国各地の市民メディアを取材されている。

 まず問題提起として、なぜ市民メディアは根付かないのか、という問いが投げかけられた。
 報告者の白石草さん(OurPlanetTV)は、今日の会のために市民メディアの簡単なチャート図を作成。メディアアクティビズムとは、社会を変えていくメディア、あるいはメディアの構造自体を変えていくメディアと言えるのではないか、と定義した上で各々の市民メディアにはスタンスの違いがあるのではないか、と述べた。

 続いて、映像でいくつかの市民メディアを紹介。
 大きな特徴としては、マスメディアでは取り上げられない話題が扱われていることがうかがえる。各々の市民メディアが点在し、横のつながりが希薄だったが、市民メディア全国協議会が発足し2004年からは毎年市民メディア全国交流集会(通称:メディフェス)が開催されている。
 一方で、消滅した市民メディアも多く、それはなぜだろうかと白石さんが問いかけた。
 それに対して、岩本さんは組織をまとめるオルガナイザーがいる所は長続きしている、と答えた。続いて話は、白石さんらが2001年に立ち上げた、OurPlanetTVの具体的な話へ。白石さんはマスメディアから独立してインターネット放送局OurPlanetTVを作ったが、当初のイメージはビデオジャーナリストが作品を発表する場を想定していた。しかし、いわゆるプロではない市民の方々からビデオの製作方法を教えてほしいという相談を多数受ける中で、徐々に市民メディアの重要性に気付いて行ったそうだ。 同時に、インターネットで放送できるならそれで十分ではないかと思っていたが、海外のオルタナティブメディアの活動を知るなかで、発表の場を拡張する動きをしなければならないことにも気付いたという。

 続いて、横浜のポートサイドステーションの和田昌樹さんにも加わっていただいた。
 ポートサイドステーションは当初FM放送局を作ろうとしていたが、横浜の特殊な電波事情から難しいことが分かり、インターネット放送局にシフトした。横浜にはいくつものインターネット放送局があり、その横のつながりを総称して横浜市民放送局、としている。和田さんはボランティアで市民メディアに関わることの限界を指摘。同時に、運営のために助成金をもらうことからおこる内紛など生々しい話もされた。そこで、市民メディアであっても独自に財源を作っていく必要も述べられた。横浜市では11月から開催されるAPEC(アジア太平洋経済協力)に向けて警備が強化されているが、横浜市民放送局ではAPECに批判的な放送も行っており、行政との距離感の大切さも語られた。
 ちなみに、横浜市民放送局ではAPECに合わせて、NO APECという趣旨のもと、48時間テレビを放送する準備を進めているそうだ。

 続いて、白石さんはOurPlanetTVの運営形態を紹介。
 その後、和田さんは多彩な人材が市民メディアに関わることで起こる人間関係の難しさも紹介された。

 休憩後、オーマイニュースはなぜ日本でうまくいかなかったのか、という話題に。白石さんはオーマイニュースの運営にも関わっていた立場から問題点を指摘。一つは、組織形態が古く、既存のメディアの形態を踏襲していた点。もう一点は目的意識が曖昧なうえにヘッドハンティングで人材を集めた点。そこで白石さんが感じたのは、多くの市民メディアはやりたい人が集い、目的意識がはっきりしている場合は長続きする、ということだった。
 一方で、岩本さんはオーマイニュースの失敗をもって活字系の市民メディアが根付かないことにはならないだろうと述べ、和田さんはご自身がかつて1969年に創刊された「週刊アンポ」の編集に関わっていた経験を語られた。また、和田さんは市民メディアとしては下から積み上げていくような形が理想で、マスコミが拾い上げない声を伝えていくことの大切さを述べられた。

 質疑応答では、下村さんが内閣審議官になったことについてどう思うか、という質問が。そこで下村さんから届いたメッセージが読み上げられ、下村さんに期待することも議論になった。
 続いて、インターネットの発達で世界中に情報が発信できることが強調されたが、一方で地域をつなぐメディアとしての役割も重要になっているのではないか、ということも語られた。また、ネット上のバーチャルな関係だけではなく、生で接することの重要性も語られた。

 最後に、白石さんは市民メディアの中にも政治的な話題を忌避する傾向を感じていて、もう少し横のつながりがあってもいいのではないか、と語られた。(映像作家、VIDEO ACT!スタッフ:本田孝義)

録画UPしました―第3回

USTREAMで配信した第3回【市民メディアの勃興、挫折、現在動】をアップしました。下記リンクで御覧ください。
http://martable.blogspot.com/p/videos.html#third

2010-10-20

第3回 【市民メディアの勃興、挫折、現在】

   デジタル技術の進歩によって、誰もが自由に表現できる時代に入った。DVカメラの登場やブロードバンドの整備によって個人が放送局を持ったり、情報発信することが可能になったとも言われる。一方で、1995年の阪神大震災以降、地域のコミュニティ放送局やケーブルテレビ局においても、市民メディアの活躍は大きく広がった。
   とはいえ、オーマイニュースやJANJANなど、市民参加型のネットメディアは活動を停止。海外などと比較すると、日本における市民メディアは規模も影響力も小さく、社会における認知度も低い。
  なぜ、日本では市民メディアが根付きにくいのか。日本における市民メディア活動の軌跡を振り返りながら、ソーシャルメディアが盛んな現在において、市民メディアにどんな意義があるのかを語り合う。

[トーク]:岩本太郎(フリーライター)
白石草(OurPlanetTV)
下村健一(市民メディアアドバイザー) [予定]

*トーク1時間、ディスカッション1時間30分程度の予定です。

▲日時:10月27日(水)19時~21時半頃
▲場所:素人の乱・12号店
杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F(奥の部屋)
JR中央線高円寺駅下車徒歩7分
北中通り沿い素人の乱シランプリ向かい
アヤマ接骨院脇の階段を昇って奥
地図→http://trio4.nobody.jp/keita/shop/12/map.html
当日問合せTEL:090-8647-5030(土屋)
▲参加費:500円
▲主催:メディアアクティビスト懇談会
e-mail:maroundtable@gmail.com
TEL:03-3296-2720(OurPlanet-TV内)

※当日は、インターネット動画配信・記録を行います。

2010-10-02

報告と資料―第2回

★ 当日配布資料  資料

★ 報告
 第2回目の懇談会は、80年代から現在まで日本のメディア運動を担ってきたキーパーソンの一人、松原明さん(ビデオプレス、レイバーネット、MediR)を招いて開催された。 テーマは「ペーパータイガーTVと日本のメディア運動」だが、報告は最近のネット動画・ライブ配信の活動にまで及んだ。現在でもメディア運動の中心的存在であるが、松原さんの功績としてまず最初に挙げなければならないのは、92年につくられた民衆のメディア連絡会事務局長としての活躍である。民衆のメディア連絡会結成は、日本と海外の情勢およびメディア運動の展開に呼応して結集された日本のメディアアクティビズム黎明期の歴史的な結節点とも言うことができるだろう。したがって、民衆のメディア連絡会結成の経緯、90年代メディア運動の発展と連絡会活動休止(2000年)までのおおよその時代に絞ってまとめてみたいと思う(その他の部分は映像資料を参照)。

 80年代後半から、世界の社会運動の現場で小型ビデオカメラが活躍を始める。市民撮影の映像が社会にインパクトを与えた事例として、89年のルーマニア・チャウシェスク政権崩壊をとらえた映像、91年の米ロサンゼルスでスピード違反の黒人男性が白人警官によって集団暴行を加えられた映像などが挙げられた。このような流れの中で、80年代前半から活動を始めていたアメリカのペーパータイガーTVが、ケーブルテレビを使って、全米から集められた湾岸戦争を支持しないオルタナティブな映像を連続的に発信していく。同時期に、労働運動とメディアに共通の関心をもつアメリカのスティーブゼルツァー氏(レイバーテック)と韓国の金明準氏(労働者ニュース制作団・映像メディアセンターMEDIACT現所長)と松原さんが知り合い、時を同じくしてペーパータイガーTVとも出会うことになった。早速、ペーパータイガーTVからキャシー・スコットさんを招き、韓国や台湾、チリなどのビデオ映像も紹介する民衆のメディア国際交流集会が開かれた(91年12月)。まさに世界のメディア運動と日本のメディア運動の出会いの瞬間であり、民衆のメディア連絡会の出発点とも言えるものだった。松原さんは、ペーパータイガーTVが湾岸戦争を指揮したブッシュ大統領の「New world order(新しい世界の秩序)」に対抗して言った「News world order(情報新秩序)」の精神に強い共感を覚えたという。
 民衆のメディア連絡会に結集したのは、「伝えたいことを伝えたい。マスメディアがだめなら自分たちでやるしかない」というスピリットに共感した自主的なビデオ制作、映画制作、上映運動をしていた個人やグループだった。はじめは20人ほどのゆるいネットワークで、できることリストの作成から始め、ビデオ映像を作って見せる交流するを主眼にした活動が始まった。毎月の例会や勉強会、年1回の交流集会、ニュースレターの発行などを重ね、やがてビデオ作品のリストになり、メーリングリストは400名を超すまでに発展した。
 連絡会メンバーの手によって、「無法ポリスとわたりあう方法」、「新宿路上テレビ」、「あなたは天皇の戦争責任をどう思いますか」、「人らしく生きよう―国労冬物語」、ビデオ塾、などの映像作品やグループが輩出されていった。新宿路上テレビの制作者は、「野宿者のドキュメンタリをつくって見せたら、野宿者が喜んでくれて出演意欲も感じたので、TVニュースのパロディという形でそこにあるコニュニティの姿とその世界観を現出させたかった。支援者も当事者もこの場を形成しているみんなの世界を形にしたかった」と語っている。松原さんはこの時期の活動に、当事者の発信・タブー無し・自由な発表形態といったメディアアクティビズムの原型を見ることができると指摘している。
 しかし、民衆のメディア連絡会は2000年にメーリングリストを残しながらも、オフラインの活動を休止しファーストステージの活動を終える。各分野に専門性をもつメンバーが増えそれぞれに特化した方がいいだろうという判断と、メーリングリストの荒れによる疲弊があったという。ここには現在の私たちが学ぶべきポイントがあると感じる。メーリングリストの荒れが直接的な契機になったとは言え、交流メインの活動によって築かれた多分野横断的な活動を一歩引き上げるためには、交流に留まらない運動としての戦略性や工夫がさらに必要ではなかっただろうか。後退と低迷を続ける日本の社会運動が独自のメディア獲得に成功していないこととも無縁ではないだろう。

 最後に、松原さんは9点に渡って、現在の日本のメディア運動に対する問題提起を行った。その締めとして、民衆のメディア連絡会のような意識的な場づくり、ネットワークの再生を強調した。私たちがセカンドステージを拓き、日本のメディア運動の今日的な発展を望むなら、民衆のメディア連絡会の成果と限界を時代的特徴と合わせて深く学ぶ必要がある。 (MediR 松浦敏尚)

★ ブログ紹介記事
あなたはテレビのニュースを信じますか?―山の自然と生き物のブログ
http://blog.livedoor.jp/kensanjya/archives/51866921.html